住民の声を議会に届ける

2015年の初当選以来、住民の方々の願いを届け、相談件数は800件を超えました。「今日、食べるものがない」「今すぐ来てほしい」などの声に、駆け付けて相談に乗ったり、河川や道路の問題では、有志の方たちと運動を立ち上げ、一緒に議会や行政と交渉するなど、地域の要望を議会に届けてきました。
議会では、市の財政を分析して、政令市でトップの財源を持っていること。財政が豊かなのに、市民の福祉くらしの予算は少なく、臨海部の大規模事業には湯水のようにお金を使っていることなどを明らかにしてきました。
これからも住民の方の声を議会に届けるために引き続き議会へ送って下さい、よろしくお願い致します。
プロフィール
1958年北海道厚真町生まれ。函館ラサール高校、東京工業大学、米ホープ大学を卒業。コンピューター会社でシステムエンジニアとして働く。2015年川崎市議会議員初当選。現在2期目、市議会総務委員会委員、議会運営委員会委員。党市議団団長。家族は妻と1子。末長在住。
生い立ち

1958年10月30日、北海道の米どころとして有名な厚真町(苫小牧の近く)で、郵便局長の父と本や絵の好きな母の長男として生まれました。公営住宅に住み、近所の友達と、山や川を相手にのびのびとした少年時代を送りました。
2018年、北海道胆振東部地震の際には、震災2日後に現地に入り物資を届け、被害を受けた友人たちを訪問して被害状況などを調査しました。
反戦平和の共産党に入党
1977年、函館ラサールを卒業後、京都の予備校で民青同盟に出会い、夏の原水爆禁止世界大会に向けて核兵器廃絶の署名を集めたり、秋には京都の各予備校の浪人生を集めて「傘はり祭り」を企画するなど、孤独な浪人生たちの要望に応える活動もしてきました。こういう活動の中で、「戦前から唯一、戦争に反対した党があったこと」を知り、「自分がどんな状況になっても戦争にだけは反対できる人間になりたい」と日本共産党に入党しました。
「自分を試したい」アフリカ縦断の旅

東京工業大学を卒業後、「自分はどんな人間なのか」「厳しい状況の中で自分を試してみたい」と1984年、単身でアフリカに出発。バックパックを背負い、現地では飛行機は使わず、地図を見ながらヒッチハイクなどで移動し、その土地の人と同じようなところで暮らし、同じものを食べ、その土地の言葉を話す放浪の旅を2年近くしてきました。多くの村で、貧困の中で幼い子供たちがなくなっていく実態を目の当たりにしたり、世界中がエイズやガンで苦しんでいるのを見て、医学が最も進んでいるアメリカの大学で学ぶことを決意しました。
医学を学びにアメリカの大学へ―学費は奨学金
1992年、アメリカミシガン州のホープ大学に留学しました。生物・化学を専攻するなかで、ガンを治すためには遺伝子の研究、特に免疫細胞について研究を進めたいと思うようになりました。また、日本人とアメリカ人の交流をするための「ジャパンクラブ」を立ち上げ、フードフェスや文化交流のイベントを開催。今でもそのクラブは大学に残って活動しています。

驚いたのは、大学の学費です。世界一高いといわれるアメリカの学費ですが、州立・公立大学は、日本よりも安く、奨学金は給付制で、私も3年目は資金が尽きて奨学金を申請し、年間150万円の学費は奨学金で賄っていました。
政治家になろうと思ったわけ・IT企業で200時間の残業
20代~30代、半分は外国で暮らしていましたが、半分は日本のIT企業で働いて外国で暮らす資金をためていました。当時、月200時間を超えるような残業の中で多くの仲間が倒れたり、病気になっていくのを見て、残業を規制して、人間らしく働ける職場にしたいと思っていました。そんな時、日本共産党から県議会議員候補の要請を受け、政治家を目指すことになりました。
・中東では「戦争しない国、日本」
エジプトの砂漠を横断中、オアシスの小学校を訪問した時、小学生が私を日本人だと知って寄ってきて、最初に発した言葉が「ヒロシマ、ナガサキ」でした。驚き、先生に聞いたところ、エジプトの小学校では世界で最初に原爆が落とされたのが日本であり、核兵器をなくす運動を最初に始めた国だと教えているということでした。
イスラムの国で街なかを歩いていると、よく家に招待されることがありました。欧米人にはしないということでした。その理由を聞いたら「日本は先進国で唯一、中東戦争に参加していない、平和の国だ」ということで尊敬されていることを知りました。
憲法9条を変えて戦争の準備をするような状況の中、「戦争だけは反対」と決めて入った日本共産党、この党の候補者として出る決意をしました。