むねた 裕之

宗田 ひろゆき
日本共産党川崎市議会議員

プロフィール


すぐ行動 地域を駆ける

ごあいさつ

むねた裕之 2015年の初当選以来、みなさんの願いを議会へ届け続け、相談件数は300件を超えました。地域の要求では、住民のみなさんと一緒に運動し議会でも取り上げてきました。
 国政では、福祉切り捨ての政治が横行しています。また、憲法9条改悪に執念を燃やしています。
 こうした時こそ、地方自治体が国の悪政から市民の福祉、暮らしを守る防波堤となるべきです。地方自治体の本旨は「住民の福祉の増進」(地方自治法第1条)です。この立場から引き続きがんばりたいと思います。

略歴

 1958年北海道厚真町生まれ。函館ラサール高校、東京工業大学、米ホープ大学を卒業。コンピューター会社でシステムエンジニアとして働く。党神奈川県政策副委員長などを歴任し、2015年川崎市議会議員初当選。まちづくり委員会副委員長、党市議団副団長を歴任。現在、市議2期目。党市議団長、総務委員会委員、議会運営委員会委員。高津区末長在住。家族は妻と長女。

むねた裕之のプロフィール

幼友達と(右からふたり目) 1958年(昭和33年)10月30日、北海道の米どころとして有名な勇払原野にある厚真町で郵便局長の父と、本と絵や歌の好きな母の長男として生まれました。公営住宅に住む子どもたちと、山や川を相手にのびのびとした少年時代を送りました。
 町立厚真小学校では、5年生の時、立候補して児童会長もつとめました。(写真:幼友達と(右からふたり目))

「自治って何だろう」―高校時代

 1974年に函館ラサール高校に入学し、寮に入りました。学校では生徒会や寮の自治会活動を奨励しており、当時は政治や社会に無関心でしたが、寮自治会の活動に参加し「自治ってなんだろう」と考え始めました。
 学校の校風はとても自由で、フランス人やカナダ人の先生もいて、生徒の自主性を尊重する教育をしていました。そこですばらしい数学の先生と出会い、数学の面白さを知りました。

党との出会い

 大学受験に失敗して京都の予備校に入学した4月のある日、下宿に民青同盟の方が訪ねてきました。「政治や社会のことを勉強する団体」と聞いて、すぐ加盟しました。浪人生班では班長を引き受け、先輩に講師をお願いして勉強会にも取り組みました。核兵器廃絶の署名で団地を訪問したり、平安神宮の公園で学習会をしたり新鮮で刺激の多い、充実した浪人生活でした。
 こうした中で戦前、命をかけて戦争に反対し、戦後もいっかんしてその立場を貫いている日本共産党のことを知り、ごく自然に入党しました。

川崎での学生生活

浪人時代―嵐山に遊ぶ 1年間の浪人生活を経て1978年東京工業大学に入学し、川崎市に引越してきました。
 親からの仕送りに頼らずに学生生活を送るため、浪人時代から塾の講師をしていましたが、宮前区にあった「宮前アカデミー」で講師をし、150人の生徒たちに、勉強の面白さを伝えたいと奮闘しました。(写真:浪人時代―嵐山に遊ぶ)

「自分を試したい」―アフリカ縦断の旅

成田空港で見送る友人たち 1984年「サハラに死す」の小説に影響されて、単身アフリカに出発。当日は、成田空港に友人が大きな横断幕を掲げてくれ、見送ってくれました。自分はどんな人間なのか、この旅でくじけるようではどうせたいした者ではない、と思って出発しました。飛行機を使わない、地図をみてヒッチハイクしながら移動し、その土地の人と暮らし、その土地の言葉をしゃべり、理解し合う。アフリカは初めての海外旅行で、英語はカタコト、大学でかじったフランス語もほとんど役に立たない状態でした。
 最初に訪れたエジプトで、いきなりホームシックにかかりましたが、砂漠とジャングルをはいずるようになんとか旅をし、自信にもつながりました。
 貧困の中で幼い子どもたちが死んでいく実態などを目の当たりにして、医学を学びたいと思うようになりました。(写真:成田空港で見送る友人たち)

若者の「使い捨て」社会は許せない

ジャパンクラブのフェスティバルにて

 1985年に帰国し、今度はアメリカで医学を学ぼうと、留学の資金を貯めるため、コンピューターのソフトウエア会社に就職しました。月200時間を超える残業で倒れ、辞めていく仲間を見て、若者を使い捨てるような社会に憤りを感じました。
 資金もたまり、結婚して1992年アメリカミシガン州ホープ大学生物学科に留学しました。アメリカでの学生生活は充実していましたが、ただ勉強するだけでなく学生同士の交流の場をつくろうと考え「ジャパンクラブ」を結成しました。40人ほどの会員が集まり、初代会長としてアメリカ人学生に日本の文化を紹介するなど、交流を深める努力をしました。1995年には阪神淡路大震災の募金も集め、日本に送りました。(写真:ジャパンクラブのフェスティバルにて)

「人の役にたつこと」が存在理由

 1998年に日本共産党の県会議員候補(中原区選出)になってほしいとの要請を受けました。自分は政治家に向いていないと思っていましたが、200時間を超える残業や職場で、ノルマに追い立てられて倒れ、やめていった仲間のことを思うと「働く人たちの置かれた状況を変えることが必要」と考えました。自分の存在理由は「人の役にたつこと」と思い、候補者をひきうけました。その後、16年間県議選、衆参両院選挙に挑戦し、2015年の一斉地方選挙で初当選させていただきましたが、今もその思いは変わりません。

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